みなさん、廃棄物に関する法律の歴史ってご存じですか?今回は歴史シリーズをお届けします。
そもそもそういう法律がある事自体ご存じ無い方が多数派だと思います。
法の歴史で言えば、明治11年までさかのぼります。
その年、内務省により、「ごみはなるべく市外、人家遠隔の地に搬出するよう」という公文書が通達されます。『市外、人家遠隔の地に搬出するよう?』ん・・・?
それって、政府公認の山奥に不法投棄しとけって事ですか?
そうなんです、その通りなんです。これには歴史上の背景がありまして、時は嘉永6年のペリー来航までさかのぼります。何だかんだと国交が開き、外国人が出入りするようになった結果、海外からの伝染病が国内に持ち込まれ、明治10年の西南戦争時にはコレラにより約8,000人が死亡したとの記述が残っています。これを受け、日本に初めて公衆衛生に関する法律の明文化されたものが誕生したのです。ちなみに、このコレラ問題、明治19年には10万8千人の死亡という記述がありますので、相当な猛威をふるったらしいです。
それまでの伝統産業、肥し屋(人糞を買い取って肥料化して農家に売却する仕事)が、肥料価格の暴落で多数廃業したなんて記述も残っています。化学的側面からは、堆肥化する際の発酵熱が80℃程度まで3か月程度継続して維持されますので、コレラウィルスも滅菌されるはずなんですが、コロナ禍のような風評被害が起きたんでしょうね。そのため、不衛生な物は人里離れた所に捨てるようにっていう当時、焼却炉もまともに無い中でのやむを得ない衛生策だったんです。
そして、明治22年、日本でビール瓶の生産が始まり、ビール瓶のリユースが始まります。
更にその翌年、大阪・京都で「厨芥掃除規制」により各戸住宅からのごみ収集の業務入札が始まります。要は、現在からすると、一般廃棄物収集運搬について、行政の入札が開始されたという事です。公衆衛生の行政管理というのが着々と進んで来たという事ですね。
そんな中、明治30年、日本の工業化の中、歴史的大事件が起こります。
それは、教科書にも載っている『足尾銅山鉱毒事件』という日本初の公害事件のです。田中 正造さんが政府に訴えるも、その加害者、古河鉱業がカドミウム漏洩の責任を認定されたのは昭和49年5月11日の判決によってです。いわゆる「100年公害」と名付けられておりますが、これが日本初の製造者責任の概念が誕生した記念すべき日です。
そして、明治32年、日本国内でペストが大流行します。現在で言えば、高度外国人材を積極的に招聘した結果と考えられていたようですが、その翌年、日本政府は公衆衛生の観点から、『汚物掃除法』が制定し、ゴミとし尿の収集が地方行政の実務として位置付けられることになりました。現在でいう、一般廃棄物の自治体処分義務の誕生です。
ただし、『肥し屋』も併存する形で残っていたという記述もあるので、自治体本体が回収するというより、民間への入札での請負というのが実態のようです。
しかも、ペストの原因がネズミと考えられていたため、ネズミ1匹が当時の盛りそば4杯分(現在の価値で2,000円/匹くらい?)で自治体が買い取って駆除していたという記録があります。
そして、歴史的大事件、日露戦争へ突入します。この影響により、ゴミとし尿の収集入札が十分な予算が調達できなくなり、請負人が回収頻度を減らすなどのサービス低下を招いたなんて記述があり、戦争と公衆衛生の優先順位の優劣が良くわかるエピソードですよね。
ふう・・・。やっと江戸時代から明治時代までの環境行政の解説を書き終えました。
私、書きながら確信しましたが、このシリーズ、産廃クイズにならぶ大長編になりますね。
次回、『廃棄物処理法の歴史(大正編)』を乞うご期待‼
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