みなさん、廃棄物に関する法律の歴史ってご存じですか?今回は歴史シリーズをお届けします。
そもそもそういう法律がある事自体ご存じ無い方が多数派だと思います。
前回では『大正編』を解説しましたが、今回は『昭和編』です。
昭和29年、『汚物掃除法(昭和5年制定)』が廃止され、『清掃法』にリニューアルされました。この取締り対象は『汚物』(ごみ、燃え殻、汚泥、糞尿及び犬、猫、鼠等の死体)とされていました。徐々に現在の廃棄物処理法の輪郭に近づいて来ましたね。
そして昭和39年、この時期の定義の『ごみ』の総量は621万トン、同年トヨタ自動車がクラウンを発売開始します。まさに自動車産業界の伸び始め、昭和ノスタルジーを感じますね。
また、この時期、ついに暗黒の公害時代に突入します。昭和31年にチッソ水俣工場より漏洩されたメチル水銀により水俣病が発生します。
そして昭和32年、東京都が『夢の島 埋立開始』し、生ごみなどを焼却せずにそのまま埋め立てる暴挙が行われます。その翌年、東京タワー竣工と経済発展と環境問題悪化の時代に突入して行きます。そして昭和38年 『生活環境施設整備緊急措置法』が制定されます。この法律はついに日本政府が生ごみ直接投棄の環境不衛生化問題に本格的に取り組む姿勢を示したものです。
各市町村に対して5か年計画で補助金を投入し、急速に焼却炉を整備させて行きました。
また、それまでごみを各戸収集だったものが、現在のごみステーション式に切り替わったのもこの頃です。そしてこの流れの中で昭和40年、『夢の島 焦土作戦』が実行されます。何と、消防庁と自衛隊の共同作戦により、大量の薬剤と重油をゴミの山に散布し、大規模過ぎる野焼きを行いました。当時の記録に『消火を専門にする消防職員が目を輝かして放火して歩き・・・。』という何とも皮肉な記述が残っています。
そんな中、経済は順調に発展し、ごみの発生量も昭和40年 1,625万トン、昭和45年 2,810万トンと劇的に増えて行きます。ただ、これは個人的には実量が増えたということの他に統計上、カウント出来ていなかった不適正処理ごみが管理され出したのではないかと感じます。
その昭和45年、ついに清掃法がリニューアルし、ついに『廃棄物の処理及び清掃に関する法律』、略称『廃掃法』、通称『廃棄物処理法』が制定されました。これにより、廃棄物処理法の大原則である
① 一般廃棄物は市町村に処理責任がある。
② 産業廃棄物は事業者に処理責任がある。(排出事業者責任)
が定められました。
私の勤務先の会長は、この廃棄物処理法の制定前からの産廃屋ですので、「地面に穴穂って、被服銅線に灯油かけて燃やして銅線取り出して売った」といった武勇伝をお持ちです。
この廃棄物処理法制定の翌年、日本初のマクドナルド1号店がオープンし、ファーストフード全国チェーン店の先駆けとなります。工業の発展だけでなく、飲食・サービス業も急速に発展して行く事となります。
そんな平和な発展の中、昭和50年 『六価クロム鉱さい事件』が起きます。何と江東区、江戸川区の広範囲にわたり、約52万トン(うち江戸川区に8万トン、環境基準の2,000倍)の六価クロム鉱さいが埋め立てられている事が市民団体の告発により発覚したのです。埋め立てた犯人は日本化学工業 小松川工場で、工場内は雨天時には黄色い水たまりが出来て、それを飲んだ野良犬は痩せこけて死亡する。そして、人体への影響は「風の強い日には粉塵が肌に触れるとヒリヒリ痛み、痛くて目を開けられない」といった状況で、職員の大量離脱が起きたとの記述があります。この不法投棄の原状復帰が実現したのは何と平成12年5月の事です。私、昭和53年の産まれのため、平成12年というとつい最近の気がしますが、令和産まれの方からすると大昔って感覚でしょうね。訴訟の賠償額は江東区へ処理費として1,650万円・訴訟関係費用として50万円の支払。従業員に対しては総額12億5千万円が支払われました。
そして昭和51年、廃棄物処理法が大きくリニューアルします。
この後の展開はまだまだ長く続きますので、次回、『廃棄物処理法の歴史(昭和末期編)』を乞うご期待‼
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